かーさんの検査結果

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この間の、Blogで母の検査結果が出たらご報告いたしますと、お伝えした通り、検査結果が出ましたので、ご報告いたします。

検査結果はなかなか厳しいけど、カラオケで元気!

肺がんで、大きさは6から7センチ、小細胞癌。進行が早く転移もしやすい。肺に少しだけですが、水が貯まっていて、肺がんの場合、水が溜まると癌の状況関係なく、一番状態が悪いレベル4の診断になるそうです。

手術は無理なのは分かっていたのですが、癌の大きさで、放射線治療は無理。

母の体の状態が、ペースメーカー、認知症、ある程度歩けますが、常に歩けるわけではないので、薬を使った薬物療法も副作用を考えるとやらない方が良い。

と、なかなかの状態ですが、原田家は元気です。

望めば、薬物療法はやってもらえる可能性もありますが、母の今の元気を保つ為に、お医者さんも薬物療法をお勧めしないと仰っていまして、僕と父の考えでも、現時点では、薬物療法をとることは考えておらず、カラオケ療法をしています♫(笑)

って、そんな療法ないです!!(笑)が、母が大好きな音楽や歌をとことんやって毎日を楽しく生きていこう♫。

と、

決めた原田家でございます。

僕と父と母が、薬物療法を望まない限りは、経過観察になるので、いつどうなるかは分かりませんが、

友達に教えてもらった癌に良いと言われる、重曹やクエン酸。体を温めるなどのことにもトライしながら、カラオケや、ドリフで大爆笑しながら、母の具合をみながら、僕も父も生活をしていきます。

かーさんってこんな人柄。

僕が引きこもりになってしまった中学生の時、引きこもりについて沢山本を読んで勉強して、僕の代わりに病院のカウンセリングに行って、勉強して、「あ〜私がつらい思いをさしてしまったんだね。私が悪かったんだ。ひでごめん。」って僕に謝った母。

その時の自分の感情は今でも忘れませんが、言葉には出来ません。

その病院で、うちと同じように、子供さんが引きこもりのご両親も沢山いて、待合室で泣いていたりしてたそうなのですが、

母は、「気持ちは分かるけど、あなたが泣いてどうする。辛いのはあなたの子供でしょ」って、慰めていたそうです。

僕の音楽も、写真の弟のサーフィンも全力で応援してくれた。そして、母も一緒に楽しもうとしていた。

誘えば、ライブにもいつも遊びに来て、若者よりもはしゃいでいた母(笑)。タトゥーが入っている強面のミュージシャンにも、「それなに?かっこい〜!どうなってるの見せて見せて!」と、迫って仲良くなる母。

新取手で飲んでいて、知らないおじさん二人と仲良くなったから、飲もうと、夜11時ぐらいにうちに連れてきて、「か〜さん、それやりすぎ〜〜」と家族会議した時もあったり。愉快な母です(笑)。

この間の癌を宣告された時も、「え〜〜ショック〜〜!どうしたら良いんですか〜〜?いつまで生きれるんですか?いつ死ぬんですか??」っと軽〜い感じで、キャピキャピして聞くので、

お医者さんも、困りながらも、「癌の宣告をされて、こんなに明るい方は初めて見ました」と、明るさのお墨付きを頂きました(笑)。

認知症もあるので、癌であることも忘れてしまうのですが、でも、心の中では分かっているかもしれませんし、母のみぞ知る領域になっております。

そんな、明るい母の気持ちが、「誰かにもし届いたら良いな〜」ということを思ったり、

人前で歌ったり踊ってることが大好きだったんだよな〜と思ったり、

父や弟、自分のためにも、今の母の姿を残しておきたいと思ったり、

うちのテレビの画面で父と母が歌っている姿を、「母に見せたらどんなリアクションをするのかな〜?面白そう!!」ということもあり、自分のYoutubeも始めて、とーさんとかーさんの動画もアップすることにしました。

優しく強く、暗いことが大嫌いで、泣き言も嫌い。負けず嫌い。人に心配はかけたくない。マイペースで天然。どんな時も笑顔で笑い飛ばし、やるとなったら楽しくとことん真剣な母。

母がよく言ってたのは、「自分は自分。人は人。」なんか冷たいような言葉なんですけど、今の歳になってこの言葉を使って母が僕に伝えようとした意味が、少しずつ分かってきたような気がします。

かーさん。原田リエ子の人生ってこんな感じ。

福島県須賀川市仁井田生まれで、3姉妹の真ん中。親の稼業は農家。牛もいて、蚕もいて、鶏もいてと、昔ながらのなんでもやりまっせ〜の農家の自営業スタイルのお家に生まれる。

三姉妹みんな明るくて面白くて大好きです。

成績優秀。スポーツも優秀。男友達とよく遊ぶガキ大将的な人で、苦手なことは、家でじっとしていることと、農家の手伝い(笑)。

農家の手伝いは全くやらなかったらしいです(笑)。今でも、母のねーちゃんが、「リエ子は農家全くやらなかったからな〜っ」てネタになってます。

音楽も好きで、オルガンやピアノを買って欲しかったらしいのですが、お金の都合で買って貰えず、音楽を習うことは出来なかったけれど、高校の時に、知り合いの方から、芸能界へデビューの話がくる。

が、両親が厳しかったので断り、高校を卒業したら、東京に行ってスクールメイツに入ると、電電公社(今はNTT)に入社が決まり、ワックワクで東京へ!

仕事をしながら、剣道、卓球、お茶、茶道、着付け、ゴーゴー、ディスコ、居酒屋飲みと。全力で今を楽しむ。しかし、東京に行く本来の目的であったスクールメイツには入っていない(笑)。そこがかーさんの面白いところであります。

気持ちは元気だが、体を強い方ではないので、キーパンチャーになり、偏頭痛を常に伴うようになる。そして、父との結婚へとなっていくのですが、その道のりは厳しかったそうです。

父とは、11歳違うので、母の両親に猛烈に反対されるのと、「スクールメイツは??」って疑問もあったのかもしれない(笑)。

が、母はその反対により余計に燃え、父も優しい人なので、みんなに好かれて無事に結婚。

つわりの最中でも、働きに行き、僕が生まれる時も、一人でタクシーを呼んで病院に行ったりしたそうです。

仕事は、NTTをやめた後も、近所のラーメン家でパートしながら傘の内職。その他色んな内職。積水ハウスの受付。東急デパート。ヨークマートのパートをしながら、お茶を教えたりしていました。

職場で、仲良くなった方に着物の着付けをしたり、悩んでいたりする人と飲んだり、横暴な上司と戦ったりして横暴だった方も改心して、仲良くなって母と飲んだりしている。

今思うと、とても素敵な働き方、生き方だなと思います。

そんな中、母が、一番夢中になったのは、社交ダンスのラテン。40代のどの時期に始めたのかは、定かではないのですが、燃えまくっておりました。やはりスクールメイツのダンス!!ってのは、心にあったのかなーと今、このBlogを書いていて思います。

頭の中ダンスのことでいっぱい過ぎて、考えすぎで寝れないとか、そんな日も多くて、その意識の高さにびっくりしたこともあります。

もう少しで、先生になれる所まできていたのですが、

50代後半で心臓の具合が悪くなり、調べて行くと生まれつき肺に小さな穴が空いていて、年齢とともにその穴が大きくなってきたり、その症状に耐えれなくなってきていた。

仕事人間が、仕事をやめたことによる認知力の低下や、仕事を辞めた歳に起きた東日本大震災のショックとか色〜んなことがタイミング悪く重なり、心臓の発作も激しくなり、倒れてしまうことも多くなったので、また、ダンスを踊れるように手術へ。

ここから、介護生活の始まり

本当は、ペースメーカーを入れる予定ではなかったのですが、心臓の具合がよほど悪くてペースメーカーを入れ、元気で帰宅。

だったのですが、トイレをする時に倒れてしまい、体を打って痛いというので、ゆっくり寝かしておけば回復するだろうと3日寝かしておいたら、歩けなくなってしまい、ここからが、突然訪れた母と父と僕の試練の始まりでした。

急激な筋肉の萎縮で、体中が痛くて動けなくなる母、どうした良いのかわからない父と僕。息子の僕は、いろいろ調べて体を動かした方が良さそうとか思うのですが、母を大好きな父は、「体が痛い母を無理に動かすなんてダメだ〜〜っ」と、喧嘩です(笑)。

母に、僕が「そんなに辛いならどうする?生きたい?死にたい?どうしたい?」って真剣に聞いたことがあって、弱気が嫌いな母が、泣きながら生きたい。って伝えてくれたことが今でも鮮明に覚えています。

今思えば、かなり認知症も入っていたのだと思いますし、鬱の状態であったのかもしれません。元気になるために手術し、ダンスを踊れる日を夢見ていた母は、ものすごく苦しく悲しかったと思います。

この当時も、記憶をする力が弱っていたのであれば、朝起きれば、なぜか体が痛い。理由がわからない。不安。この繰り返しを母が体験していたとしたら、もっと早く気づいてあげたかった。

と、ここから元気になったり、具合が悪くなったりを繰り返し、色んなことが起きるのですが、

今は十分に幸せです。

ダンスの世界に戻れなかったのはとても残念ですが、今の母は、しっかり喋れるし、ある程度歩くこともできるし、文字も書けるし、歯も磨けるし、ご飯も自分で食べれて、ノンアルコールも飲めるし、カラオケも歌える。週に1回だけど、とーさんの補助付きで自力でお風呂に入れる。弟夫婦と外食も出来るし、かーさんの横でとーさんが爆睡できる(笑)。

そんな風になればいいなと、願いを込めて、2018年から、僕も父の介護のお手伝いをしてきましたので、その願いは叶ったわけで、十分に幸せです。

もちろん、去年は検査以外では病院のお世話になることもなく、「これからもっと元気になっていく〜」と、思っていた僕と父はめちゃくちゃショックだったのは間違いありません。

僕なんかよりも父のショックは、大変なことだったと思います。今でも、父が倒れなくて良かったとホッとしています。

心の奥底では、僕も父もごまかしきれない辛さみたいなのがあると思いますし、後悔をしないようにやってきたけれど、「もっと、あ〜すれば良かった。こ〜すれば良かった。」と、結局、後悔ってのはするものだな〜と学びにもなりました。ま〜男って未練たらしいですからね(笑)。

ですが、後悔や悩んでいる時間なんてもったいないので、

冒頭でも書きましたが、父とも話し合い、「今を感謝して、今を楽しく生きていこうそして、今までよりもハッピーに参りましょう」と、過ごしている原田家でございます。

生きているって素晴らしい。

長くなってしまいましたが、最後まで読んで下さりありがとうございました。
感謝です。